事務連絡からカルトな話題まで満載
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北海道札幌市在住の相馬博幸氏(昭和58年卒)より、秋田県の北鹿新聞にて
田中英則元監督の追悼記事掲載の情報を頂戴いたしました。
貴重な情報をありがとうございます。
北鹿新聞社からの転載許可も正式にいただきましたので、ホームページにて閲覧可能になりました。
トップページの【更新履歴】、もしくは【フォトギャラリー】をクリックしてください。
田中先生の着任当時のお話や、君島厚志氏(昭和53年卒)入学秘話、
学校創設期の話しや、甲子園出場秘話など、今となっては大変貴重な
エピソードがたくさん語られております。
ファイルを画像ファイルに変換して掲載しておりますので、
若干重たいかも知れません。
何卒、ご了承下さい。
田中英則元監督の追悼記事掲載の情報を頂戴いたしました。
貴重な情報をありがとうございます。
北鹿新聞社からの転載許可も正式にいただきましたので、ホームページにて閲覧可能になりました。
トップページの【更新履歴】、もしくは【フォトギャラリー】をクリックしてください。
田中先生の着任当時のお話や、君島厚志氏(昭和53年卒)入学秘話、
学校創設期の話しや、甲子園出場秘話など、今となっては大変貴重な
エピソードがたくさん語られております。
ファイルを画像ファイルに変換して掲載しておりますので、
若干重たいかも知れません。
何卒、ご了承下さい。
事務局より、OB会費の振込みに関しての確認です。
1月10日火曜日に、きらやか銀行鶴岡中央支店より「きらやか銀行口座」へお振込み頂いた方で、
振り込み人名を「ワタナベ キヨシ」で5,000円入金された件に心当たりのある方は
事務局までご一報下さい。
口座名義人と振込み人名を間違えたものと推測できますが、
このままですとお礼状や総会資料の発送ができません。
振込み時の電話番号も、OB会相談役渡辺清氏の携帯番号で登録されており、
本人に確認したところ、別人と判明いたしました。
鶴岡にお住まいで渡辺清氏の携帯番号を知るOBの方、ということまでの想像しかできませんが、
お心あたりのある方は、ご連絡よろしくお願いいたします。
1月10日火曜日に、きらやか銀行鶴岡中央支店より「きらやか銀行口座」へお振込み頂いた方で、
振り込み人名を「ワタナベ キヨシ」で5,000円入金された件に心当たりのある方は
事務局までご一報下さい。
口座名義人と振込み人名を間違えたものと推測できますが、
このままですとお礼状や総会資料の発送ができません。
振込み時の電話番号も、OB会相談役渡辺清氏の携帯番号で登録されており、
本人に確認したところ、別人と判明いたしました。
鶴岡にお住まいで渡辺清氏の携帯番号を知るOBの方、ということまでの想像しかできませんが、
お心あたりのある方は、ご連絡よろしくお願いいたします。
1968(昭和43年)の創部から1973(昭和48年)野球部初代モデル。
今から45年前、鶴岡経理学校から高等学校認可を受け、「鶴岡商業高校学校」として
高野連に登録した際のユニホームがモノクロ写真でのみ残っている。
斎藤哲二前校長の隣には、着任間もない頃の田中監督(推定24歳)の姿が映っている。
ゲン担ぎで大会期間中は髭を剃らなかったという。
ユニホームのメーカーは不明だが、素材は綿であろう。
今ではイメージできないが、色は鮮やかなライトブルーであった。
新設校のイメージに重なり非常に爽やかでスマートな印象を受ける。
胸のマークは漢字四文字で「鶴岡商高」と入っており、
襟・袖・パンツサイド・ベルトループには黒のラインが施されている。
袖にはいずれも校章の刺繍はなく、非常にシンプルなデザインであった。
1973(昭和48年)第55回記念大会のため、山形大会優勝で甲子園出場となる1県1代表の年に
決勝で日大山形に敗れ、悲願の初出場を逃した際にもこのユニホームを着用している。
決勝の相手が日大山形でユニホームが酷似していたことと、準優勝の大健闘に学校長が大変喜び、
翌年からアイボリーに緑色のタテジマユニホームに変更された。
余談ではあるが、その数年後にOBのみで硬式クラブチームを結成し、
全国都市対抗野球大会の県予選に出場したことがある。
その際はこのユニホームのレプリカを着用して出場したとされているが、
写真の胸マークの【OB】の文字が後付けのように見えることや、
当時すでに、このユニホームの使い道がなかったであろうこと、
さらに茂木勝矢氏が監督で率いていたことを考察すると、
当時のユニホームを加工したのではないかと推測されるが、
その経緯・真相は定かではない。
ちなみに、結果は山形相互銀行(現きらやか銀行)に0-10で大敗している。 完。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
長きにわたっての連載にお付き合い頂き、ありがとうございました。
お楽しみいただけましたでしょうか。
あなたは、どのユニホームに袖を通しましたか。
掲載にあたり、貴重な資料写真を快く提供して頂いた佐藤喜彦氏(昭和49卒)と
遠藤一徳氏(昭和54卒)の御両名には、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
また当時の卒業アルバムや、学校創立当時の時代背景など、
貴重なお話を聞かせていただいた長南克志氏(学校職員)にも重ねて御礼申し上げます。
※左上にあるカテゴリー欄の【ユニホーム】をクリックしていただくと、
古い年代から順に時系列で見ることができます。
今から45年前、鶴岡経理学校から高等学校認可を受け、「鶴岡商業高校学校」として
高野連に登録した際のユニホームがモノクロ写真でのみ残っている。
斎藤哲二前校長の隣には、着任間もない頃の田中監督(推定24歳)の姿が映っている。
ゲン担ぎで大会期間中は髭を剃らなかったという。
ユニホームのメーカーは不明だが、素材は綿であろう。
今ではイメージできないが、色は鮮やかなライトブルーであった。
新設校のイメージに重なり非常に爽やかでスマートな印象を受ける。
胸のマークは漢字四文字で「鶴岡商高」と入っており、
襟・袖・パンツサイド・ベルトループには黒のラインが施されている。
袖にはいずれも校章の刺繍はなく、非常にシンプルなデザインであった。
1973(昭和48年)第55回記念大会のため、山形大会優勝で甲子園出場となる1県1代表の年に
決勝で日大山形に敗れ、悲願の初出場を逃した際にもこのユニホームを着用している。
決勝の相手が日大山形でユニホームが酷似していたことと、準優勝の大健闘に学校長が大変喜び、
翌年からアイボリーに緑色のタテジマユニホームに変更された。
余談ではあるが、その数年後にOBのみで硬式クラブチームを結成し、
全国都市対抗野球大会の県予選に出場したことがある。
その際はこのユニホームのレプリカを着用して出場したとされているが、
写真の胸マークの【OB】の文字が後付けのように見えることや、
当時すでに、このユニホームの使い道がなかったであろうこと、
さらに茂木勝矢氏が監督で率いていたことを考察すると、
当時のユニホームを加工したのではないかと推測されるが、
その経緯・真相は定かではない。
ちなみに、結果は山形相互銀行(現きらやか銀行)に0-10で大敗している。 完。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
長きにわたっての連載にお付き合い頂き、ありがとうございました。
お楽しみいただけましたでしょうか。
あなたは、どのユニホームに袖を通しましたか。
掲載にあたり、貴重な資料写真を快く提供して頂いた佐藤喜彦氏(昭和49卒)と
遠藤一徳氏(昭和54卒)の御両名には、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
また当時の卒業アルバムや、学校創立当時の時代背景など、
貴重なお話を聞かせていただいた長南克志氏(学校職員)にも重ねて御礼申し上げます。
※左上にあるカテゴリー欄の【ユニホーム】をクリックしていただくと、
古い年代から順に時系列で見ることができます。
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