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事務連絡からカルトな話題まで満載

おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

暑い日が続きますが、先日「熱いぜ熊谷!」でおなじみの埼玉県熊谷市へ行ってきました。
もちろん記念誌の取材です。最高気温38.1度!

 

そして、「熊谷」にピンときた方、正解です。

お会いしたのは熊谷キャンパスをホームグラウンドにする立正大学硬式野球部関係者。

「歴代部長先生の言葉」という企画で、佐藤俊監督の大学時代の恩師でもある立正大硬式野球部の元監督にして、鶴岡東の元部長、早川京悟先生の登場です。

 

早川先生は千葉県出身。千葉商、立正大で捕手として活躍。

卒業後に立正大コーチをしていた昭和53年、臨時コーチとして鶴岡東、当時の鶴商学園の

指導に携わるようになり、昭和55年、正式に赴任。3年間、部長を務めていただきました。

その後は木更津中央高(現・木更津総合高)、立正大の監督を歴任。

西口文也(現・西武投手コーチ)を育てたことでも知られています。

 

「大学時代の佐藤先生には、故障もあって学生コーチをしてもらったんだけど、最初はノックを
うまく打てなくてね。それがどんどん上達していったのに驚いた。コツコツ、真面目だったなあ。
今はそれだけではない感じだけど(笑)」

 

と、佐藤監督の思い出話から始まった鶴岡時代のエピソード。

関東育ちの早川先生が初めて経験する雪国の暮らしはなかなか大変だったようで……

詳しくは記念誌にて。

 

ちなみに早川先生の撮影は、立正大OBであれば懐かしさを感じるであろう場所にしてみました。

はい、実は僕も立正大出身なんです。野球部ではありませんが。

なので、僕自身も思い出深く取材を行えた次第。

というわけで、撮影場所がわかった方、回答をお待ちしております(笑)。

 

それでは次回のレポートもお楽しみに!

 

facebook 8月9日掲載】















 

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おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

夏の大会は非常に悔しい結果となりましたが、秋春の結果を考えれば、
みんなとてもがんばってくれたと思います。

来年、下級生が敗戦をバネに飛躍してくれることを期待したいですね。

 

というわけで、久しぶりの記念誌の制作レポートです。

私、仕事的に高校野球の選手権や都市対抗野球が重なる6月、7月が繁忙期のため
間が空いてしまいました。

やっと落ち着いてきたので、記念誌制作もまたスパートをかけたいと思います。

 

今回、紹介するのは記念誌の「鶴岡東を支えていただいた人々」というパートの制作レポート。

50年の歴史の中で、野球部は多くの方の協力や好意、支えに恵まれてきました。
そんな人々を紹介しよう、という企画になります。

 

その取材の一環でうかがったのは山形市の仙台屋旅館。
40代以上のOBの方には懐かしい名前かもしれませんね。

主に1970年代から1990年代にかけ内陸方面での試合の際に常宿としてお世話になった旅館です。

 

旅館は現在も営業していますが、故・田中英則監督とも親交の深かったご主人の庄子勉さんは
病気療養で入院中。
代わって女将の佳子夫人が取材に対応してくれました。
ご無沙汰しています!

 

「私が結婚してこの旅館に来た昭和50年にはもう野球部の宿になっていましたね。きっかけは
主人と鶴商の多田先生が山形南高校で同級生だったこと。野球部が強くなり、県大会で泊まる
必要が出て紹介されたみたいです」

 

多田先生!懐かしい。
その縁を僕は知らなかったので「へ
」といまさらながら驚いた次第です。

1970年代といえば月山道路も山形県野球場もない時代。
当時のメイン会場だった霞城公園にある山形市野球場から徒歩圏内の仙台屋旅館は
うってつけの宿泊先だったのでしょう。

 

さらに興味深かったのは「食」の話。
田中監督は1970年代から既に試合を見すえた食事の配慮を希望していたようなのです。
その詳細は・・・記念誌にて!

 

「先日の決勝戦も、主人は病院のベッドの上でテレビを見ながら大興奮して鶴岡東の応援を
していました。負けて本当に悔しがっていましたよ」とは佳子さん。
ご主人の勉さんは今も鶴岡東に熱い声援を送ってくれているそうです。
ありがたい話ですね。

 

「鶴岡東を支えていただいた人々」の一人ひとりのパートのボリュームは少ないのですが、
そこで得た話は、記念誌の様々なところに反映したいと思います。

 

それでは次回のレポートもお楽しみに!

 

facebook 7月29日掲載】







おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。


不定期でお届けしている記念誌の制作レポート、今回は鶴岡東が初の甲子園を決める
直前時期の方による座談会の紹介です。

 

お集まりいただいたのは後列左からOB会長の阿部晋さん(鶴岡一中出身)、
伊藤専さん(加茂中/現・鶴岡五中出身)、前列左から渡辺清さん(鶴岡三中出身)、
佐藤千恵子さん(旧姓・渡部:羽黒中出身)、岡部耕治さん(羽黒中出身)の5名。

ちょうど昭和4851年に選手・マネージャーだったみなさんです。

 

この時期は夏の山形県大会初の決勝進出と敗退、高坂グラウンド完成前の練習場であった
赤川グラウンドの開場など、野球部が一気に成長する時期でした。


故にテーマは「鶴岡から甲子園へ」

 

初の快進撃と、なかなか壁を破れなかった悔しい思い。
みなさんのお話も盛り上がったわけですが、個人的に聞きたかったのは、
田中監督の野球の変化についてです。

 

というのも、1978年、甲子園初出場を決めた際、田中監督が
5年前、初めて決勝進出した頃はイケイケで打ち勝つ野球がしたかったが、日大山形に敗れ、    
 基本の大切さ、コツコツ攻めることの重要さに気づかされた。その教訓が生きた。」
といった主旨のコメントをされていたんです。

 

田中監督と「イケイケで打ち勝つ野球」。

へぇ、と意外に思ったOBの方も多いのではないでしょうか。もちろん僕もその一人。

で、その「5年前」頃が、この座談会のメンバーの方々なんですね。
というわけで、そのあたりの真実も語っていただきたいポイントでした。

 

その結果は……「え、そんなことがあったんですか!」というビックリした〝事件〟の話が。
田中監督にもそんな時代があったんだなあ……と驚きつつ、ウチの学校は昔からそんなノリか、
という感想も(笑)。

 

その詳細は……記念誌でご確認ください

 

ではでは、次回もお楽しみに!










facebook 64日掲載】

おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

春季県大会は残念ながら8強敗退でしたね。しかし本番はあくまで夏。
後輩選手たちの成長に期待しましょう!

というわけで、本日も不定期でお届けしている記念誌の制作レポートなのですが、
今回はみなさんにおたずねです。

 

現在、各世代代表者の方を中心に、記念誌に掲載する写真の収集にご協力いただいていますが
(本当にありがとうございます!)、私の方でも歴代の指導者、関係者の方から
たくさん資料写真を収集しています。

そのなかに故・田中英則監督のご家族から預かったアルバムがありまして、
これがまた貴重な写真揃い! 全ては無理ですが、なるべく記念誌にも掲載したいと
鋭意セレクト中です。

 

が、実は年代のわからない写真が一部ありまして、各方面に確認作業をしているのですが、
まだ不明の写真もあったり。

 

そこでみなさんにおたずねです。

今回の投稿で公開している写真、いつの代のものかおわかりの方いらっしゃいますでしょうか?

公開しているのは1枚ですが、実際はクロスプレーの連続写真になっています。

もしおわかりの方、あるいは「それオレ!」という方がいらっしゃいましたら(笑)
 是非ご教示ください。

たぶん、1980年代中盤後半かな、と思いますが、いかがでしょう?

 

……と、このように写真は現在も収集中。

 

集合写真などは比較的あるのですが、試合中のプレー写真、練習前後や大会宿泊時、
あるいは練習以外の時間に校内で撮影したものといったオフショット写真は少ない代もあります。

もし、みなさんのもとへも「写真ない?」なんてヘルプのお声がかかった際には
ご協力いただけると幸いです。

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに!

 

【5月22日facebook OB会ページ掲載】










※写真は、昭和57年夏の大会準々決勝・対寒河江戦サヨナラの場面での
 板倉浩一郎選手と判明いたしました。情報提供頂いた皆様、ありがとうございました。

おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

不定期でお届けしています記念誌の制作レポート、
本日も前回に続き創部にまつわるエピソードです。

 

前回、紹介したように鶴岡東が夏の選手権に初参加した1968年(昭和43年)は、
高野連の規定で2、3年生が出場できなかったため、出場メンバーはオール1年生。
当然ですが翌年は2年生になった彼らと1年生。初めて3学年揃って大会に出場できたのは
1970年(昭和45年)ということになります。

 

そして、この間、はからずも3年連続キャプテンを務めることになったのが茂木政光さん
(写真:黄金中/現・鶴岡三中出身)でした。

 

経験者の方はキャプテンの責任の重さや苦労は世代を問わず共感できるはず。
その重責を茂木さんは入学直後から引退まで担ったわけです。
もちろん1、2年生時は先輩がいたので基本的には大会時に限ってのキャプテンではありましたが、
それはそれで気を遣うこともあったでしょうし、何より1年生だけで挑む初めての夏。
無我夢中で飛び込んだ感じだったのでは……。

というわけで「鶴岡東・初めての夏」の話を伺いに、現在は岐阜県で暮らす茂木さんのもとへと
足を運びました。

 

「当時は狭い練習グラウンドしかなくて、フリーバッティングや外野ノックも、
 まともにできなかったんだよ」と当時の環境を教えてくれた茂木さん。

中学時代、野球部ではなかった選手も少なくなく試合は苦労の連続。

 「そんななか、赴任したのが田中(英則)監督だったんです」

 田中監督の就任には、茂木さんたち選手の思いも大きく関わっていました。

その選手たちの中には後にコーチ・部長・監督を務めることになる茂木勝矢先生も含まれています。

 「オレと勝矢は親戚だったのよ。それで高校でも野球やろうぜ、となって・・・」

田中監督、茂木先生の指導を受けた私としては、田中監督の若き日の話や、
高校生だった茂木勝矢〝投手〟の印象などはとても新鮮でした。
お二人には「年齢を重ねた大人」というイメージしかなかったですからね。

 

ちなみに茂木さんと茂木先生、姓の漢字は同じ「茂木」ですが、読みは茂木さんは「もぎ」、
茂木先生は「もてぎ」。

 「しかも、もう一人、同期に茂木がいたからややこしくてね」と笑う茂木さん。
就職した会社でも野球を続け、近年まで少年野球の指導者も務めていたそうです。

 「だから、自分の母校が甲子園に出るようなチームになったのはうれしかったし自慢だったよ」

それも茂木さんたちが万全とはいえない環境の中、野球を続けてくれたからこそ。

そんな鶴岡東、黎明期の戦いは、記念誌にて詳しく紹介予定です。

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに!





 






【5月7日facebook OB会ページ掲載】

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