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おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

記念誌の制作レポート、本日は1991年にコーチとして当時の鶴商学園に赴任、
1992年秋から1995年春まで監督を務められた野末浩先生の取材です。

 

野末先生は現在、郷里の埼玉県さいたま市(旧・浦和市)に戻り、東京の練馬中央シニアの
監督として、中学生の指導をされています。

練馬中央リトルシニアは野末先生の母校でもある帝京高校の野球部OBの方が中心となり
結成されたチーム。
野末先生はコーチから監督に昇格して全国大会、ジャイアンツカップを目指しています。

一方で、OBの選手は帝京は当然のこと、二松学舎大付、前橋育英、盛岡大付、山梨学院、
国学院栃木、東海大菅生といった強豪校へ多数進学、甲子園出場も果たすなど
「高校で通用する選手を育てる」ことを第一に練習に取り組んでいるとのこと。


そして現在、鶴岡東にもOBの吉澤知紀選手が所属しています。

「いろいろあって鶴岡を離れることになったけど、当時は一生、骨を埋めるつもりだったよ。
 鶴岡は食べ物も美味しくて住むには最高のところだったし」と話す野末先生。
その気持ちを今の教え子たちに託しているのかもしれません。

 

実は野末先生は僕が1年生のときに赴任、2年生の秋、つまり自分たちの代から監督に就任されました。
その意味では、まさに僕にとって「恩師」なのですが、今思えば監督就任時、
野末先生はまだ24歳という若さ。
様々なプレッシャーや試行錯誤、苦労があったことでしょう。
当時の我々はその日をしのぐことで精一杯、そこまでの思いをめぐらせることはできませんでしたが(笑)。

 

ただ、僕個人としては野末先生が監督を離れるとき、自分も多少、大人になっていたので
「もう少し時間があれば……」とも思ったものです。
まあ勝負の世界は厳しいので、致し方ないのも確かなんですけどね。

ただ、あれから25年が経った今も野球に携わっている野末先生を見ることができるのは、
偉そうで恐縮ですが幸せなことだと感じた次第です。

「オレももうすぐ50歳、後継者が育ったら監督はそろそろ退きたいよ」という言葉とは裏腹に、
その指導は今も熱意あふれるもの。野末先生に鍛えられた僕は、指導の声を聞いたら吐き気を
感じ始めましたよ!(そういうときは「じゃあ吐いてこい」と言われる。笑)

 

そんな若き日の野末先生は、甲子園で出て勝つために、どうチームを成長させようと考えたのか。
ポイントはある「方言」だったそうです。

その詳細は……ぜひ記念誌でご堪能ください。

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに!

 

facebook 9月11日掲載】


 

 

 


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おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。


秋季大会も始まりましたね。高校野球のサイクルは本当に早い。
選手の頃はそれほど意識していませんでしたが、運営する側は「忙しい」という感覚ではないかな、
なんて思っています。

 

さて、先日、かつて常宿だった仙台屋さんの取材を紹介しましたが、
今回の記念誌制作レポートも常宿ネタです。
若いOBの方はなじみがあるでしょう。

現在、内陸方面の大会などでお世話になっている天童シティホテルさんの取材に行ってきました。
仙台屋さんと同じ「鶴岡東を支えてくれる人々」企画です。

 

 天童シティホテルに行くのは初めてだったのですが、僕が現役だった頃はなかった天童スポーツセンター野球場はすぐだし、きらやかスタジアムや県野球場もクルマで20分前後。目の前にはコンビニもあるし、天童ICも近い。立地が抜群なんですね。

 

対応していただいたのは代表取締役の居鶴憲也さん。

「きっかけは天童高校野球部の父母会の方からの紹介でした。
 その方と佐藤監督の友人がお知り合いだったのが縁。
 私の息子も天童高校で野球をしていたんですよ。
 それで息子が卒業した後も野球部の関係者の方といろいろつながりがありまして」


おお、これぞ野球が結ぶ縁!

 

居鶴さんは「試合に集中してほしいから」と、野球部が宿泊する際は、
なるべく他の予約はとらないようにしているそうです。

「ストレスは少ない方がいいでしょうし、食堂などもミーティングで使いやすいでしょうから」

ありがとうございます!

 

鶴岡東が再び甲子園にたどり着くまでの過程を見続けてきた証人でもある居鶴さん。
「今のよい状態を維持して、これからも毎年、優勝を狙ってがんばってほしいですね」
という励ましの言葉をいただきました。

 

内陸、天童方面に御用がある際、若いOBは思い出巡りに、年輩のOBは今の選手たちの環境を
感じに、天童シティホテルさんに宿泊してみるのもよいかもしれませんね。

居鶴さん、今後もよろしくお願いします!

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに。

 

facebook 8月30日掲載】
















おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

暑い日が続きますが、先日「熱いぜ熊谷!」でおなじみの埼玉県熊谷市へ行ってきました。
もちろん記念誌の取材です。最高気温38.1度!

 

そして、「熊谷」にピンときた方、正解です。

お会いしたのは熊谷キャンパスをホームグラウンドにする立正大学硬式野球部関係者。

「歴代部長先生の言葉」という企画で、佐藤俊監督の大学時代の恩師でもある立正大硬式野球部の元監督にして、鶴岡東の元部長、早川京悟先生の登場です。

 

早川先生は千葉県出身。千葉商、立正大で捕手として活躍。

卒業後に立正大コーチをしていた昭和53年、臨時コーチとして鶴岡東、当時の鶴商学園の

指導に携わるようになり、昭和55年、正式に赴任。3年間、部長を務めていただきました。

その後は木更津中央高(現・木更津総合高)、立正大の監督を歴任。

西口文也(現・西武投手コーチ)を育てたことでも知られています。

 

「大学時代の佐藤先生には、故障もあって学生コーチをしてもらったんだけど、最初はノックを
うまく打てなくてね。それがどんどん上達していったのに驚いた。コツコツ、真面目だったなあ。
今はそれだけではない感じだけど(笑)」

 

と、佐藤監督の思い出話から始まった鶴岡時代のエピソード。

関東育ちの早川先生が初めて経験する雪国の暮らしはなかなか大変だったようで……

詳しくは記念誌にて。

 

ちなみに早川先生の撮影は、立正大OBであれば懐かしさを感じるであろう場所にしてみました。

はい、実は僕も立正大出身なんです。野球部ではありませんが。

なので、僕自身も思い出深く取材を行えた次第。

というわけで、撮影場所がわかった方、回答をお待ちしております(笑)。

 

それでは次回のレポートもお楽しみに!

 

facebook 8月9日掲載】















 

おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

夏の大会は非常に悔しい結果となりましたが、秋春の結果を考えれば、
みんなとてもがんばってくれたと思います。

来年、下級生が敗戦をバネに飛躍してくれることを期待したいですね。

 

というわけで、久しぶりの記念誌の制作レポートです。

私、仕事的に高校野球の選手権や都市対抗野球が重なる6月、7月が繁忙期のため
間が空いてしまいました。

やっと落ち着いてきたので、記念誌制作もまたスパートをかけたいと思います。

 

今回、紹介するのは記念誌の「鶴岡東を支えていただいた人々」というパートの制作レポート。

50年の歴史の中で、野球部は多くの方の協力や好意、支えに恵まれてきました。
そんな人々を紹介しよう、という企画になります。

 

その取材の一環でうかがったのは山形市の仙台屋旅館。
40代以上のOBの方には懐かしい名前かもしれませんね。

主に1970年代から1990年代にかけ内陸方面での試合の際に常宿としてお世話になった旅館です。

 

旅館は現在も営業していますが、故・田中英則監督とも親交の深かったご主人の庄子勉さんは
病気療養で入院中。
代わって女将の佳子夫人が取材に対応してくれました。
ご無沙汰しています!

 

「私が結婚してこの旅館に来た昭和50年にはもう野球部の宿になっていましたね。きっかけは
主人と鶴商の多田先生が山形南高校で同級生だったこと。野球部が強くなり、県大会で泊まる
必要が出て紹介されたみたいです」

 

多田先生!懐かしい。
その縁を僕は知らなかったので「へ
」といまさらながら驚いた次第です。

1970年代といえば月山道路も山形県野球場もない時代。
当時のメイン会場だった霞城公園にある山形市野球場から徒歩圏内の仙台屋旅館は
うってつけの宿泊先だったのでしょう。

 

さらに興味深かったのは「食」の話。
田中監督は1970年代から既に試合を見すえた食事の配慮を希望していたようなのです。
その詳細は・・・記念誌にて!

 

「先日の決勝戦も、主人は病院のベッドの上でテレビを見ながら大興奮して鶴岡東の応援を
していました。負けて本当に悔しがっていましたよ」とは佳子さん。
ご主人の勉さんは今も鶴岡東に熱い声援を送ってくれているそうです。
ありがたい話ですね。

 

「鶴岡東を支えていただいた人々」の一人ひとりのパートのボリュームは少ないのですが、
そこで得た話は、記念誌の様々なところに反映したいと思います。

 

それでは次回のレポートもお楽しみに!

 

facebook 7月29日掲載】







おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。


不定期でお届けしている記念誌の制作レポート、今回は鶴岡東が初の甲子園を決める
直前時期の方による座談会の紹介です。

 

お集まりいただいたのは後列左からOB会長の阿部晋さん(鶴岡一中出身)、
伊藤専さん(加茂中/現・鶴岡五中出身)、前列左から渡辺清さん(鶴岡三中出身)、
佐藤千恵子さん(旧姓・渡部:羽黒中出身)、岡部耕治さん(羽黒中出身)の5名。

ちょうど昭和4851年に選手・マネージャーだったみなさんです。

 

この時期は夏の山形県大会初の決勝進出と敗退、高坂グラウンド完成前の練習場であった
赤川グラウンドの開場など、野球部が一気に成長する時期でした。


故にテーマは「鶴岡から甲子園へ」

 

初の快進撃と、なかなか壁を破れなかった悔しい思い。
みなさんのお話も盛り上がったわけですが、個人的に聞きたかったのは、
田中監督の野球の変化についてです。

 

というのも、1978年、甲子園初出場を決めた際、田中監督が
5年前、初めて決勝進出した頃はイケイケで打ち勝つ野球がしたかったが、日大山形に敗れ、    
 基本の大切さ、コツコツ攻めることの重要さに気づかされた。その教訓が生きた。」
といった主旨のコメントをされていたんです。

 

田中監督と「イケイケで打ち勝つ野球」。

へぇ、と意外に思ったOBの方も多いのではないでしょうか。もちろん僕もその一人。

で、その「5年前」頃が、この座談会のメンバーの方々なんですね。
というわけで、そのあたりの真実も語っていただきたいポイントでした。

 

その結果は……「え、そんなことがあったんですか!」というビックリした〝事件〟の話が。
田中監督にもそんな時代があったんだなあ……と驚きつつ、ウチの学校は昔からそんなノリか、
という感想も(笑)。

 

その詳細は……記念誌でご確認ください

 

ではでは、次回もお楽しみに!










facebook 64日掲載】

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