事務連絡からカルトな話題まで満載
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おつかれさまです。
創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。
不定期でお届けしている記念誌の制作レポート、今回は鶴岡東が初の甲子園を決める
直前時期の方による座談会の紹介です。
お集まりいただいたのは後列左からOB会長の阿部晋さん(鶴岡一中出身)、
伊藤専さん(加茂中/現・鶴岡五中出身)、前列左から渡辺清さん(鶴岡三中出身)、
佐藤千恵子さん(旧姓・渡部:羽黒中出身)、岡部耕治さん(羽黒中出身)の5名。
ちょうど昭和48年〜51年に選手・マネージャーだったみなさんです。
この時期は夏の山形県大会初の決勝進出と敗退、高坂グラウンド完成前の練習場であった
赤川グラウンドの開場など、野球部が一気に成長する時期でした。
故にテーマは「鶴岡から甲子園へ」
初の快進撃と、なかなか壁を破れなかった悔しい思い。
みなさんのお話も盛り上がったわけですが、個人的に聞きたかったのは、
田中監督の野球の変化についてです。
というのも、1978年、甲子園初出場を決めた際、田中監督が
「5年前、初めて決勝進出した頃はイケイケで打ち勝つ野球がしたかったが、日大山形に敗れ、
基本の大切さ、コツコツ攻めることの重要さに気づかされた。その教訓が生きた。」
といった主旨のコメントをされていたんです。
田中監督と「イケイケで打ち勝つ野球」。
へぇ、と意外に思ったOBの方も多いのではないでしょうか。もちろん僕もその一人。
で、その「5年前」頃が、この座談会のメンバーの方々なんですね。
というわけで、そのあたりの真実も語っていただきたいポイントでした。
その結果は……「え〜、そんなことがあったんですか!」というビックリした〝事件〟の話が。
田中監督にもそんな時代があったんだなあ……と驚きつつ、ウチの学校は昔からそんなノリか、
という感想も(笑)。
その詳細は……記念誌でご確認ください〜。