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おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

不定期でお届けしています記念誌の制作レポート、
本日も前回に続き創部にまつわるエピソードです。

 

前回、紹介したように鶴岡東が夏の選手権に初参加した1968年(昭和43年)は、
高野連の規定で2、3年生が出場できなかったため、出場メンバーはオール1年生。
当然ですが翌年は2年生になった彼らと1年生。初めて3学年揃って大会に出場できたのは
1970年(昭和45年)ということになります。

 

そして、この間、はからずも3年連続キャプテンを務めることになったのが茂木政光さん
(写真:黄金中/現・鶴岡三中出身)でした。

 

経験者の方はキャプテンの責任の重さや苦労は世代を問わず共感できるはず。
その重責を茂木さんは入学直後から引退まで担ったわけです。
もちろん1、2年生時は先輩がいたので基本的には大会時に限ってのキャプテンではありましたが、
それはそれで気を遣うこともあったでしょうし、何より1年生だけで挑む初めての夏。
無我夢中で飛び込んだ感じだったのでは……。

というわけで「鶴岡東・初めての夏」の話を伺いに、現在は岐阜県で暮らす茂木さんのもとへと
足を運びました。

 

「当時は狭い練習グラウンドしかなくて、フリーバッティングや外野ノックも、
 まともにできなかったんだよ」と当時の環境を教えてくれた茂木さん。

中学時代、野球部ではなかった選手も少なくなく試合は苦労の連続。

 「そんななか、赴任したのが田中(英則)監督だったんです」

 田中監督の就任には、茂木さんたち選手の思いも大きく関わっていました。

その選手たちの中には後にコーチ・部長・監督を務めることになる茂木勝矢先生も含まれています。

 「オレと勝矢は親戚だったのよ。それで高校でも野球やろうぜ、となって・・・」

田中監督、茂木先生の指導を受けた私としては、田中監督の若き日の話や、
高校生だった茂木勝矢〝投手〟の印象などはとても新鮮でした。
お二人には「年齢を重ねた大人」というイメージしかなかったですからね。

 

ちなみに茂木さんと茂木先生、姓の漢字は同じ「茂木」ですが、読みは茂木さんは「もぎ」、
茂木先生は「もてぎ」。

 「しかも、もう一人、同期に茂木がいたからややこしくてね」と笑う茂木さん。
就職した会社でも野球を続け、近年まで少年野球の指導者も務めていたそうです。

 「だから、自分の母校が甲子園に出るようなチームになったのはうれしかったし自慢だったよ」

それも茂木さんたちが万全とはいえない環境の中、野球を続けてくれたからこそ。

そんな鶴岡東、黎明期の戦いは、記念誌にて詳しく紹介予定です。

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに!





 






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