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おつかれさまです。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。


不定期でお届けしています記念誌の制作レポート、
本日はこの連載(?)初の野球部OB以外の方の登場です。

といっても、我々と同じくらい鶴岡東野球部に思い入れが深い方。


お名前は鶴岡南高校野球部OBの田中賢さん。

そう、故・田中英則監督のご長男です。

 

実は私と賢さんは同じ昭和50年度生まれの同級生。

高校時代に何度も試合をしたのはもちろん、賢さんと同じ鶴岡二中出身のチームメイトを通して
面識もありました。

 

鶴岡南では1年夏からサードのレギュラー。
その後は主にショートを守り、時にはマウンドにも上がるなど中心選手として活躍されました。

 

私は三塁コーチだったのですが、賢さんが遊撃のときは走者が油断しないよう
いろいろ気をつけたものです。
中継プレーで本塁が間に合わないと判断して、こっちの走者が集中力を欠いたオーバーランとか
していると見逃さずにあっという間に送球してくるんですよ。
そのたびクレバーで相手が嫌がるプレーは父親譲りなのかなあ……とか思ったり(笑)。

 

というわけで、田中監督の記事を書くための聞き取りや、過去の写真を借りるために、
現在は山形市内の病院で整形外科の医師として働く賢さんのもとへ。

 

で、待ち合わせてびっくり。

42歳となった賢さんの風貌やたたずまいが在りし日の田中監督とそっくりなんです。
正直、ちょっとブルッときましたよ!

 

それはご本人も認めるところで「年々、顔が似てきていると自分でも感じる」とのこと。
「今、鶴商時代のユニホーム着たらヤバイんじゃないかな」という言葉には思わず
「ヤバイからそれ!」と返しておきました。

 (写真は〝監督っぽく〟とリクエストしたもの。ふだんの賢さんはにこやかですよ。笑)

 

思えば1991年、夏の選手権直前に田中監督が病に倒れたとき、私や賢さんは高校1年生。
田中監督は44歳でした。

今の賢さんは、ちょうど田中監督が倒れたときと同じくらいの年齢か……としみじみ。

 

あの年の夏、鶴岡東、当時の鶴商学園の初戦は鶴岡南でした。

もし田中監督が倒れていなかったら親子対決が実現してしたはずなんです。

その後、田中監督は部長として復帰されたので、その立場での親子対決はあったのですが、
監督VS息子という試合は結局、幻と終わりました。

 

そんなエピソードも含め、グラウンドとはまた違った田中監督の顔の話も
たくさん聞きましたので、その成果は記念誌にて!

 

最後に賢さんからのメッセージです。

「小さい頃に遊んでくれた鶴商野球部のお兄さんたちは、自分にとって憧れのヒーローみたいな存在でした。鶴東OBではないですが、自分の母校と同じくらい、もしかしたら母校以上に鶴東には思い入れもあれば応援もしているので、これからもがんばってください!」

 

なんともうれしい言葉。
今度は賢さんもいっしょにスタンドから応援したいですね。

 

ではでは、次回もお楽しみに!


 








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