事務連絡からカルトな話題まで満載
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こんにちは。
創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。
時々お届けしています記念誌の制作レポート、本日は1996年から2000年まで
監督を務められた坂元広光先生の取材をご紹介したいと思います。
坂元先生は現在、郷里の宮崎県日南市に戻り、宮崎福祉医療カレッジという専門学校の
硬式野球部監督として、都市対抗野球の出場を目指し、今も指導に励んでおられます。
坂元先生が鶴商学園(当時)の監督に就任したのは田中英則先生が倒れられた後、
県大会でも上位進出を逃していた苦しい時期。
「必死になって、勝つためなら何でも取り組んだ」というお話は、坂元先生ご自身は
謙遜されていましたが、現在の鶴岡東に受け継がれていることも多いな、と感じました。
たとえば坂元先生が変えたユニホームにも、「勝利のために取り組んだことのひとつ」
という明確な意図があったこと、そしてデザインのある部分に、坂元先生から田中先生への
敬意が込められていたことを、当時、既に卒業していた私は知らなかったので、
とても驚きました。
(坂元監督時代のOBのみなさんは知っていることなのかな?)
途中でヘルメットを白に変えた理由も「勝ちを目指すためにそこまで考えるか」
というもので、まさに「必死」の一言。
その詳細は……記念誌にて!
「今は専門学校なので、いわば大人への指導。だけど、チャンスがあったらまた高校野球
の監督もしたいね。甲子園にはそれだけの魅力があるから。もうオレはグラウンドで
死ぬと思うよ(笑)」と56歳となる今も情熱衰えない坂元先生。
「鶴岡での経験は、自分の指導にとって、とても大きな財産となった」という言葉の数々、
ぜひ記念誌をお楽しみに。
ちなみに「思い出」として名前が挙がったたくさんの選手たちの書けない笑い話
(酒南グラウンドから走って帰らされた選手の話とか富士宮北のグラウンドで近所の
住民の方に発見された選手の話とか)は……機会があればどこかで!
ではでは、次回のレポートも楽しみにお待ちください。
【2月27日facebook OB会ページ掲載】