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こんにちは。

創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

不定期でお届けしています記念誌の制作レポート、本日は調べもののお話です。

 

今回の記事制作にあたり過去の新聞や雑誌、高野連の資料を多数あたっているのですが、
なかには思わず「へぇ」と声が出てしまう記事があったりします。

たとえば1971年、鶴岡東(当時は鶴岡商)が夏の選手権山形大会で初勝利を挙げた翌日の
新聞記事(写真)。

 

大会参加4年目にしての初勝利は、その応援席も話題になりました。

なぜかというと、今でいうチアリーダーがいたのです。


当時はまだチアがいる高校は珍しかったはず。
だからでしょう、チアリーダーという言葉がまだ一 般的でなかったためか、
記事では彼女たちを「鶴商女子隊」と呼んでいます。

「女子隊」ってなんだか新鮮ですね(笑)。

 

ちなみに鶴岡東の吹奏楽部は、創立当時の校長が野球部の応援も念頭に置いて
創部・強化したとのこと。
野球部に田中英則監督を招聘したように、吹奏楽部の指導者も関東地方から招聘したそうです。

 (年輩のOBの方はご存じの方も多いかもしれません。あの杉目先生です)

 

記念誌の取材や調べものをしていて気づくのが、わが野球部、創部当初から
「革新的」な取り組みがちょこちょこあったこと。

その詳細は記念誌をお読みいただければと思いますが、こうした応援スタイルもまた
当時の山形球界では斬新に見えたのかもしれませんね。

 

まだまだ調べものは続くので、さらに埋もれた逸話も出てくるかもしれません。

そんな「トリビア」も記念誌にはできる限り反映したいと思います。

 

ではでは、次回もお楽しみに。



 




【3月29日facebook OB会ページ掲載】

 

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おはようございます。

50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

不定期でお届けしています記念誌の制作レポート、
本日は2011年、夏の甲子園に出場した当時の3年生4名の座談会です。

テーマはド直球に「30年ぶりの甲子園」。

 

参加してくれたのは、写真左から茂木直矢さん(鶴岡三中出身)、太田海斗さん(立川中出身)、
萩原悠右さん(豊中十二中出身)、横内聡太さん(摂津一中出身)。

茂木さん以外の3名が現在、関西在住ということで、2月下旬に大阪は梅田にて開催しました。

 

みなさんもご存じのように、彼らは2年生の夏、山形大会決勝で先輩が敗れた姿を見ています。

当然、その雪辱という気持ちもあったでしょうし、チームを変えたある出来事が
夏の結果に大きく結びついたという話も興味深いものでした。

 

ただ、それ以上に印象的だったのは、このチームと前回紹介した甲子園初出場世代である
1978年のチームに、ちょこちょこシンクロしている点があるように感じたこと。

 

考えてみれば「甲子園経験値の貯金は3年出場できないとなくなる」
なんてことを言う監督もいる高校野球、甲子園の世界。

30年ぶりの出場というのは、選手たちからしてみれば、ほぼ初出場のようなもの。
共通項があっても不思議ではないのかも……かどうかは、その詳細を記念誌でお読みいただき、
是非みなさんからも感想、ご意見いただけたりするとうれしいです!

 

ちなみに余談としては、2011年夏の甲子園、ついでにいえば山形県大会の決勝も
僕は球場で観戦したのですが……萩原さんの印象がずいぶん変わっていてびっくり!

 「デ、デカくなった?」

 「えへへ、ちょっと……」

と、愛嬌たっぷりの萩原さん。
現在は医療福祉関連のお仕事で病院勤務とのこと。
なんとなくピッタリな職場じゃないかな、と思った次第。
クラブチームで硬式野球も続けているそうですよ。

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに!

 












【3月18日facebook OB会ページ掲載】

おはようございます。

50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

不定期でお届けしています記念誌の制作レポート、
本日は1978年夏、鶴岡東(当時は鶴商学園)が初めて甲子園に出場した際の
3年生4名の方による座談会です。

 

写真左から主将だった関豊さん(*旧姓・齋籐/松山中出身)、伊藤祐司さん(朝日中出身)、
佐藤憲二さん(鶴岡一中出身)、加藤徹さん(鶴岡一中出身)。

 

座談会は1月に行われたOB総会前に開催しました。テーマは「初出場の原動力」。

 

ご存じの方も多いかもしれませんが、この年のチームは2年生中心。

 周囲からは「3年計画のもとスカウトされた選手たちの2年目」と見られていた年です。

 (ちなみに当時の田中英則監督自身は、選手たちの前では「3年計画」という言葉を出さなかったとのこと)


印象的だったのは「オレたちが甲子園に出るなんて誰も想像しなかったんじゃない?」と、
みなさんが口を揃えていたことでした。

 

1つ下には実力者の選手がわんさか。
田中監督は口にしなくても、周囲がデリカシーなく「3年計画、3年計画」と騒ぐ。


上級生としては正直、面白くなかったのでは、と思いますよね。

では実際はどうだったのか……その真実はなかなか興味深いものでした。
ちょっと匂わすと「1970年代の高校野球としてはちょっと考えにくい状況」が
チーム内に起こっていたのです。
話を聞いた私は「まるで1994年の敦賀気比のようだな」と思ったのでした。


その詳しい内容は……記念誌にて!

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみにお待ちください。

 









【3月11日facebook OB会ページ掲載】

おはようございます。
創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。


時々お届けしています記念誌の制作レポート、本日は番外編です。

 

私、本業は(って別に副業があるわけでもないですが)雑誌や書籍、webコンテンツを制作する
フリーランスの編集者・ライター、いわゆるフリーライターというやつでして、野球および
スポーツを中心にいろいろな記事を編集したり執筆しています。

 

その関係で、毎年2月は沖縄や宮崎でのプロ野球のキャンプ取材が多い時期。
先日の坂元先生の取材も、それに合わせて組み込んだものだったのでした。

 

そんなわけで、当然ながら宮崎で行われていたソフトバンクのキャンプにも足を運んできたわけです。

もちろん、我らが後輩、吉住晴斗投手の様子を見に。

 

ブルペンでのピッチング(立ち投げ)では後ろで見守っていた入来祐作3軍投手コーチが
真っすぐの球威を「いいね、いいね」と絶賛。

一方で田之上慶三郎3軍投手コーチが牽制の動作を細かくチェックするなど、
プロの投手としての育成が始まっていることを実感しました。

 

投球が終わるとコーチやブルペン捕手のみなさんが「田舎の子なんでしょ」「そう、鶴岡」
「鶴岡ってどこ?」「東北、山形」「へ
」と談笑。
九州の地で鶴岡の知名度アップにも貢献しているようでした(笑)。

 

その後はランニングに個別トレ。キャンプ終盤ということもあってか、少々お疲れ気味?

 (写真手前は侍ジャパンU-18代表でも活躍した同期のドラフト5位、秀岳館高校出身の田浦文丸投手)

 

練習終わりに本人に声をかけ、キャンプの感想を聞くと
「長かったです。練習とゴハンと寝るだけ……野球だけの毎日は初めてだったので、
 これに慣れないといけないんだなと感じました」とのこと。

普通、野球に限らずこの手の話って「終わってみればあっという間でした」的コメントが多いもの。
まだまだついていくだけで精一杯という段階なのかもしれません。

 

それでも最後に「じゃあOBのみなさんに一言」とリクエストすると
「一日でも早く1軍に上がれるようがんばります!」と力強く宣言。

その心意気やよし。

ただ、競争は宿命であるものの、気負いすぎでペースを乱し、自分を見失ったまま消えていく
選手も少なくないプロの世界。
「焦らず急いで一歩ずつ」くらいの気持ちでがんばってほしいなあと思った次第です。

 

ともあれ、育成環境は申し分なしのソフトバンク。

そんな危惧、球団は百も承知のはず。きっと大きく育ててくれるでしょう。

その日を楽しみに、吉住投手を応援していきたいですね。

 

ではでは、次回のレポートもお楽しみに。




 






【3月3日facebook OB会ページ掲載】

こんにちは。
創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。

 

時々お届けしています記念誌の制作レポート、本日は1996年から2000年まで

監督を務められた坂元広光先生の取材をご紹介したいと思います。

 

坂元先生は現在、郷里の宮崎県日南市に戻り、宮崎福祉医療カレッジという専門学校の

硬式野球部監督として、都市対抗野球の出場を目指し、今も指導に励んでおられます。

 

坂元先生が鶴商学園(当時)の監督に就任したのは田中英則先生が倒れられた後、

県大会でも上位進出を逃していた苦しい時期。

「必死になって、勝つためなら何でも取り組んだ」というお話は、坂元先生ご自身は

謙遜されていましたが、現在の鶴岡東に受け継がれていることも多いな、と感じました。

 

たとえば坂元先生が変えたユニホームにも、「勝利のために取り組んだことのひとつ」

という明確な意図があったこと、そしてデザインのある部分に、坂元先生から田中先生への

敬意が込められていたことを、当時、既に卒業していた私は知らなかったので、

とても驚きました。

 (坂元監督時代のOBのみなさんは知っていることなのかな?)

 

途中でヘルメットを白に変えた理由も「勝ちを目指すためにそこまで考えるか」

というもので、まさに「必死」の一言。

その詳細は……記念誌にて!

 

「今は専門学校なので、いわば大人への指導。だけど、チャンスがあったらまた高校野球

の監督もしたいね。甲子園にはそれだけの魅力があるから。もうオレはグラウンドで

死ぬと思うよ(笑)」と56歳となる今も情熱衰えない坂元先生。

「鶴岡での経験は、自分の指導にとって、とても大きな財産となった」という言葉の数々、

ぜひ記念誌をお楽しみに。

 

ちなみに「思い出」として名前が挙がったたくさんの選手たちの書けない笑い話

(酒南グラウンドから走って帰らされた選手の話とか富士宮北のグラウンドで近所の

住民の方に発見された選手の話とか)は……機会があればどこかで!

 

ではでは、次回のレポートも楽しみにお待ちください。

 









【2
月27日facebook OB会ページ掲載】

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