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鶴岡東の初戦は8月25日(土)14時~鶴岡ドリームスタジアムにて
酒田東との対戦になります。
夏決勝の敗戦の悔しさから1ヶ月。
メンバーの中には多くの2年生が入っていましたから、そのリベンジに賭ける想いは
今までの新チームとは比べものにならないほど熱く燃えたぎっていることでしょう。
地元鶴岡での試合ですので、是非多くのOBの皆さんからスタンドに足を運んで頂いて
新しいチームのスタートの応援をよろしくお願いいたします。
なお、地区予選登録メンバーはパンフレットに基づいて更新いたしますので
もうしばらくお待ちください。
おつかれさまです。
創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。
暑い日が続きますが、先日「熱いぜ熊谷!」でおなじみの埼玉県熊谷市へ行ってきました。
もちろん記念誌の取材です。最高気温38.1度!
そして、「熊谷」にピンときた方、正解です。
お会いしたのは熊谷キャンパスをホームグラウンドにする立正大学硬式野球部関係者。
「歴代部長先生の言葉」という企画で、佐藤俊監督の大学時代の恩師でもある立正大硬式野球部の元監督にして、鶴岡東の元部長、早川京悟先生の登場です。
早川先生は千葉県出身。千葉商、立正大で捕手として活躍。
卒業後に立正大コーチをしていた昭和53年、臨時コーチとして鶴岡東、当時の鶴商学園の
指導に携わるようになり、昭和55年、正式に赴任。3年間、部長を務めていただきました。
その後は木更津中央高(現・木更津総合高)、立正大の監督を歴任。
西口文也(現・西武投手コーチ)を育てたことでも知られています。
「大学時代の佐藤先生には、故障もあって学生コーチをしてもらったんだけど、最初はノックを
うまく打てなくてね。それがどんどん上達していったのに驚いた。コツコツ、真面目だったなあ。
今はそれだけではない感じだけど(笑)」
と、佐藤監督の思い出話から始まった鶴岡時代のエピソード。
関東育ちの早川先生が初めて経験する雪国の暮らしはなかなか大変だったようで……
詳しくは記念誌にて。
ちなみに早川先生の撮影は、立正大OBであれば懐かしさを感じるであろう場所にしてみました。
はい、実は僕も立正大出身なんです。野球部ではありませんが。
なので、僕自身も思い出深く取材を行えた次第。
というわけで、撮影場所がわかった方、回答をお待ちしております(笑)。
それでは次回のレポートもお楽しみに!
おつかれさまです。
創部50周年記念誌編集担当・平成5年度卒の田澤健一郎です。
夏の大会は非常に悔しい結果となりましたが、秋春の結果を考えれば、
みんなとてもがんばってくれたと思います。
来年、下級生が敗戦をバネに飛躍してくれることを期待したいですね。
というわけで、久しぶりの記念誌の制作レポートです。
私、仕事的に高校野球の選手権や都市対抗野球が重なる6月、7月が繁忙期のため
間が空いてしまいました。
やっと落ち着いてきたので、記念誌制作もまたスパートをかけたいと思います。
今回、紹介するのは記念誌の「鶴岡東を支えていただいた人々」というパートの制作レポート。
50年の歴史の中で、野球部は多くの方の協力や好意、支えに恵まれてきました。
そんな人々を紹介しよう、という企画になります。
その取材の一環でうかがったのは山形市の仙台屋旅館。
40代以上のOBの方には懐かしい名前かもしれませんね。
主に1970年代から1990年代にかけ内陸方面での試合の際に常宿としてお世話になった旅館です。
旅館は現在も営業していますが、故・田中英則監督とも親交の深かったご主人の庄子勉さんは
病気療養で入院中。
代わって女将の佳子夫人が取材に対応してくれました。
ご無沙汰しています!
「私が結婚してこの旅館に来た昭和50年にはもう野球部の宿になっていましたね。きっかけは
主人と鶴商の多田先生が山形南高校で同級生だったこと。野球部が強くなり、県大会で泊まる
必要が出て紹介されたみたいです」
多田先生!懐かしい。
その縁を僕は知らなかったので「へ〜」といまさらながら驚いた次第です。
1970年代といえば月山道路も山形県野球場もない時代。
当時のメイン会場だった霞城公園にある山形市野球場から徒歩圏内の仙台屋旅館は
うってつけの宿泊先だったのでしょう。
さらに興味深かったのは「食」の話。
田中監督は1970年代から既に試合を見すえた食事の配慮を希望していたようなのです。
その詳細は・・・記念誌にて!
「先日の決勝戦も、主人は病院のベッドの上でテレビを見ながら大興奮して鶴岡東の応援を
していました。負けて本当に悔しがっていましたよ」とは佳子さん。
ご主人の勉さんは今も鶴岡東に熱い声援を送ってくれているそうです。
ありがたい話ですね。
「鶴岡東を支えていただいた人々」の一人ひとりのパートのボリュームは少ないのですが、
そこで得た話は、記念誌の様々なところに反映したいと思います。
それでは次回のレポートもお楽しみに!
サヨナラ負けを喫し、2年ぶり6回目の甲子園出場にあと一歩届きませんでした。
初回にホームランなどで3点を失うものの選手やチームには動揺は見られず、虎視眈々と
羽黒エース佐藤の148kmの速球への対応力を高め、打者一巡した4回に1点、5回に3点を奪い
見事佐藤をマウンドから下ろすことに成功しましたが、継投した篠田をあと一歩打ち崩せず
延長11回にサヨナラホームランを浴び悔しい敗戦となりました。
がしかし、選手達は本当によく頑張ってくれました。
今年のチームは、秋県大会は酒田南に1-2で敗れ、春県大会も山形中央に0-3で敗戦し、
4年連続出場していた東北大会への出場も叶わなかったチームでした。
そんなチームが選手権大会ギリギリまでチーム内競争を繰り返し、大幅なメンバー入替えも行いながら
ノーシードから決勝までの厳しい戦いを勝ち上がり、あと一歩のところまでの善戦を見せてくれました。
今大会は過去最高本塁打の出た年でもあり35本のホームランが記録されたものの
鶴岡東は二回戦で滝沢が放った1本のみでした。
ホームランを打てる大型バッター不在の中で、機動力と犠打と単打で繋げる打線と
最小失点で踏ん張る投手力が持ち味のチームでしたし、逆にいえば派手な選手はいないものの
チーム力・総合力で戦ってきたチームとも言えるでしょう。
一戦ごとに変わるオーダーが物語るように、選手個々の調子の見極めと微妙な修正、
ベンチメンバーの公式戦経験値を高めながら誰がどこで出場しても戦えるチームとして
全員野球の集大成を見せてくれたと思います。
悔しいですが勝った羽黒も第1シードの力量通りの投打のバランスのとれたいいチームでした。
それでも、華やかなホームランや剛速球投手などいなくても、ここまで戦えるということを実証し
一戦一戦逞しく、そして強くなってきていることを実感できたチームも珍しかったのではないでしょうか。
一夜明けた今でも悔しさだけが残ります。
この悔しさは来年とは言わず秋に晴らすべく、引き続き後輩たちの頑張りをOB会の総力を挙げて
サポート、バックアップしていかなくてはなりません。
暑い中、本当にたくさんのOBの皆さまに球場に足を運んで頂きました。
後輩たちの立ち向かう姿に感動し、勇気をもらった今年の夏でした。
本当にありがとうございました。
そしてお疲れさまでした。
2年ぶり9度目の決勝戦に駒を進めました。
先発は日大山形戦以来の先発となる左の日下。
左打者を多く揃える山形南打線を上手く翻弄し6回まで4安打2失点の好投を見せてくれました。
6回途中からリリーフした工藤も持ち前の制球力を発揮し8回にスクイズで同点に追いつかれるも
動揺せず終始打たせて取るピッチングで踏ん張ってくれました。
打撃陣は山形南井上の縦の変化球にタイミングが合わず、先制はしたもののなかなかバットの芯に
当たらないもどかしい展開にも焦ることなく冷静に単打を繫ぎ最終回に突き放してくれました。
これまで失策0を誇ってきた鉄壁の守備も2失策と乱れる場面もありましたが、
決勝を前に出せるミスは出しておくほうがいいと逆に開き直れます。
が、サインミスを含めてのバッテリーエラー4(ワイルドピッチ2・パスボール2)は
もう一度きちんと修正して決勝戦に挑まなくてはなりません。
小さなミスが命取りになるのが決勝の怖さでもあります。
甲子園まであとひとつ。
ノーシードからひとつひとつ勝ち上がり、強豪古豪を打ち破りここまで這い上がってきました。
ここまできたからには優勝を手にするだけです。
基本に忠実にコツコツ繫ぐ鶴岡東の野球か、送りバントを多用せず豪快な打撃が売りの羽黒打線か
真逆のチームカラー同士の鶴岡対決に負けるわけにはいきません。
スタンド応援のみならずテレビ・ラジオ・パソコン・スマホの前で全国のOBが応援しています。
普段通りの鶴岡東の野球で100回の甲子園の歴史に名を刻んでほしいものです。
熱中症対策は万全にスタンドに集合です!!
熱きご声援を宜しくお願いいたします。