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1974(昭和49年)鶴岡商業~1978(昭和53年)鶴商学園モデル。
このユニホームも残念ながら現存しておらず、現在は写真しか残っていない。
前年の1973(昭和48年)の山形県大会において、
青木投手(阪神ー大洋)を率いて準優勝した際に、
斎藤哲二前校長が大変喜んで、「好きなユニホームを作りなさい。」と
ポケットマネーを出したといわれている。
当時は、まだニット製がなく伸び縮みしない綿が主流だったという。
アイボリーに緑色のタテジマは当時から非常に目立っており、鮮やかな緑色の帽子が特徴的だった。
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と黒に金縁刺繍されている。
1977(昭和52年)に鶴岡商業高校から鶴商学園高校に校名が変更になるが、
ユニホームは「Tsurusho」読みで問題がなかったため、そのまま移行している。
ラグラン袖の左袖には校章が直刺繍されていた。
当時はユニホームの裾をややダブつかせて着て、
正面からの見てもベルトが見えないくらいが強豪校の着こなし術だったという。
タテジマのユニホームの襟・袖。パンツサイド・ベルトループには
太いラインが施され、当時の高校野球のユニホームとしては、
かなり目立っていたことは、容易に想像できる。
また、当時はまだ全員がグランドコートまで揃えている学校も少なく、
「野球は我が校の、校技である。」と言い切った校長の力の入れようが伝わってくる。
1978(昭和53年)の甲子園初出場を契機に、ユニホームの素材がニット主流の時代になり、
その後いつ頃まで使用されていたのか、などの詳細は不明である。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
このユニホームも残念ながら現存しておらず、現在は写真しか残っていない。
前年の1973(昭和48年)の山形県大会において、
青木投手(阪神ー大洋)を率いて準優勝した際に、
斎藤哲二前校長が大変喜んで、「好きなユニホームを作りなさい。」と
ポケットマネーを出したといわれている。
当時は、まだニット製がなく伸び縮みしない綿が主流だったという。
アイボリーに緑色のタテジマは当時から非常に目立っており、鮮やかな緑色の帽子が特徴的だった。
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と黒に金縁刺繍されている。
1977(昭和52年)に鶴岡商業高校から鶴商学園高校に校名が変更になるが、
ユニホームは「Tsurusho」読みで問題がなかったため、そのまま移行している。
ラグラン袖の左袖には校章が直刺繍されていた。
当時はユニホームの裾をややダブつかせて着て、
正面からの見てもベルトが見えないくらいが強豪校の着こなし術だったという。
タテジマのユニホームの襟・袖。パンツサイド・ベルトループには
太いラインが施され、当時の高校野球のユニホームとしては、
かなり目立っていたことは、容易に想像できる。
また、当時はまだ全員がグランドコートまで揃えている学校も少なく、
「野球は我が校の、校技である。」と言い切った校長の力の入れようが伝わってくる。
1978(昭和53年)の甲子園初出場を契機に、ユニホームの素材がニット主流の時代になり、
その後いつ頃まで使用されていたのか、などの詳細は不明である。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
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