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1978(昭和53年)の第60回全国高等学校野球選手権大会、初出場の際に新調したモデル。
この大会までは5年に1度の記念大会を除いては、秋田県代表との西奥羽大会を制しないと
甲子園へは出場できなかったのだが、この年から1県1代表制となった記念すべき大会である。
メーカーはミズノ社製で生地素材はニットで収縮性も高い。
当時はまだ綿の生地が全盛の時代だったが、いち早くニットを採用し、
さらにライトグレー地に緑ラインというカラーリングデザインは、
高校野球ユニホームとしてはあまりにもカスタマイズされたものであり、
さながらプロモデル並みのハイオーダーなユニホームで、
ミズノ社渾身の作品ともいえよう。
袖の形状はミズノ社特有のラグラン袖で校章が直刺繍されている。
首・袖・パンツサイド・ベルトループにも深緑のラインが施され、
左袖にのみ校章が金色で直刺繍されているのが分かる。
ライトグレー地に緑ラインの配色は、実はこのユニホームが最初であり
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と刺繍されており、その文字色は深緑である。
当時、タテジマのユニホームにさらにライン加工を施すというのは非常に珍しく、
また、全国的に見ても緑色の帽子・ヘルメットというのも非常に珍しい時代であった。
初出場の鶴商学園と2回目の出場の日田林工の一戦は0-3で惜敗したものの
無失策試合であり、当時から、守備はよく鍛え上げられていた印象が強い。
2年生エースだった君島投手は、甲子園入り直前に肩を壊してしまい、
試合中は終始、痛み止めを打ちながらの投球であったという。
ボール球を使った組み立てができず、また得意のシュートも投げれずに
真ん中直球勝負で挑み、わずか【68球】で甲子園を去った。
この【68球】という数字は、夏の甲子園9イニング完投投手の最少投球数記録であった。(参考記録)
この翌年の春にセンバツ出場が急遽決まり、再度ユニホームを新調することになるため、
比較的に着用期間は短かったモデルであったと思われるが詳細は不明である。
写真提供:遠藤一徳 氏(昭和54年卒)
この大会までは5年に1度の記念大会を除いては、秋田県代表との西奥羽大会を制しないと
甲子園へは出場できなかったのだが、この年から1県1代表制となった記念すべき大会である。
メーカーはミズノ社製で生地素材はニットで収縮性も高い。
当時はまだ綿の生地が全盛の時代だったが、いち早くニットを採用し、
さらにライトグレー地に緑ラインというカラーリングデザインは、
高校野球ユニホームとしてはあまりにもカスタマイズされたものであり、
さながらプロモデル並みのハイオーダーなユニホームで、
ミズノ社渾身の作品ともいえよう。
袖の形状はミズノ社特有のラグラン袖で校章が直刺繍されている。
首・袖・パンツサイド・ベルトループにも深緑のラインが施され、
左袖にのみ校章が金色で直刺繍されているのが分かる。
ライトグレー地に緑ラインの配色は、実はこのユニホームが最初であり
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と刺繍されており、その文字色は深緑である。
当時、タテジマのユニホームにさらにライン加工を施すというのは非常に珍しく、
また、全国的に見ても緑色の帽子・ヘルメットというのも非常に珍しい時代であった。
初出場の鶴商学園と2回目の出場の日田林工の一戦は0-3で惜敗したものの
無失策試合であり、当時から、守備はよく鍛え上げられていた印象が強い。
2年生エースだった君島投手は、甲子園入り直前に肩を壊してしまい、
試合中は終始、痛み止めを打ちながらの投球であったという。
ボール球を使った組み立てができず、また得意のシュートも投げれずに
真ん中直球勝負で挑み、わずか【68球】で甲子園を去った。
この【68球】という数字は、夏の甲子園9イニング完投投手の最少投球数記録であった。(参考記録)
この翌年の春にセンバツ出場が急遽決まり、再度ユニホームを新調することになるため、
比較的に着用期間は短かったモデルであったと思われるが詳細は不明である。
写真提供:遠藤一徳 氏(昭和54年卒)
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