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1968(昭和43年)の創部から1973(昭和48年)野球部初代モデル。
今から45年前、鶴岡経理学校から高等学校認可を受け、「鶴岡商業高校学校」として
高野連に登録した際のユニホームがモノクロ写真でのみ残っている。
斎藤哲二前校長の隣には、着任間もない頃の田中監督(推定24歳)の姿が映っている。
ゲン担ぎで大会期間中は髭を剃らなかったという。
ユニホームのメーカーは不明だが、素材は綿であろう。
今ではイメージできないが、色は鮮やかなライトブルーであった。
新設校のイメージに重なり非常に爽やかでスマートな印象を受ける。
胸のマークは漢字四文字で「鶴岡商高」と入っており、
襟・袖・パンツサイド・ベルトループには黒のラインが施されている。
袖にはいずれも校章の刺繍はなく、非常にシンプルなデザインであった。
1973(昭和48年)第55回記念大会のため、山形大会優勝で甲子園出場となる1県1代表の年に
決勝で日大山形に敗れ、悲願の初出場を逃した際にもこのユニホームを着用している。
決勝の相手が日大山形でユニホームが酷似していたことと、準優勝の大健闘に学校長が大変喜び、
翌年からアイボリーに緑色のタテジマユニホームに変更された。
余談ではあるが、その数年後にOBのみで硬式クラブチームを結成し、
全国都市対抗野球大会の県予選に出場したことがある。
その際はこのユニホームのレプリカを着用して出場したとされているが、
写真の胸マークの【OB】の文字が後付けのように見えることや、
当時すでに、このユニホームの使い道がなかったであろうこと、
さらに茂木勝矢氏が監督で率いていたことを考察すると、
当時のユニホームを加工したのではないかと推測されるが、
その経緯・真相は定かではない。
ちなみに、結果は山形相互銀行(現きらやか銀行)に0-10で大敗している。 完。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
長きにわたっての連載にお付き合い頂き、ありがとうございました。
お楽しみいただけましたでしょうか。
あなたは、どのユニホームに袖を通しましたか。
掲載にあたり、貴重な資料写真を快く提供して頂いた佐藤喜彦氏(昭和49卒)と
遠藤一徳氏(昭和54卒)の御両名には、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
また当時の卒業アルバムや、学校創立当時の時代背景など、
貴重なお話を聞かせていただいた長南克志氏(学校職員)にも重ねて御礼申し上げます。
※左上にあるカテゴリー欄の【ユニホーム】をクリックしていただくと、
古い年代から順に時系列で見ることができます。
今から45年前、鶴岡経理学校から高等学校認可を受け、「鶴岡商業高校学校」として
高野連に登録した際のユニホームがモノクロ写真でのみ残っている。
斎藤哲二前校長の隣には、着任間もない頃の田中監督(推定24歳)の姿が映っている。
ゲン担ぎで大会期間中は髭を剃らなかったという。
ユニホームのメーカーは不明だが、素材は綿であろう。
今ではイメージできないが、色は鮮やかなライトブルーであった。
新設校のイメージに重なり非常に爽やかでスマートな印象を受ける。
胸のマークは漢字四文字で「鶴岡商高」と入っており、
襟・袖・パンツサイド・ベルトループには黒のラインが施されている。
袖にはいずれも校章の刺繍はなく、非常にシンプルなデザインであった。
1973(昭和48年)第55回記念大会のため、山形大会優勝で甲子園出場となる1県1代表の年に
決勝で日大山形に敗れ、悲願の初出場を逃した際にもこのユニホームを着用している。
決勝の相手が日大山形でユニホームが酷似していたことと、準優勝の大健闘に学校長が大変喜び、
翌年からアイボリーに緑色のタテジマユニホームに変更された。
余談ではあるが、その数年後にOBのみで硬式クラブチームを結成し、
全国都市対抗野球大会の県予選に出場したことがある。
その際はこのユニホームのレプリカを着用して出場したとされているが、
写真の胸マークの【OB】の文字が後付けのように見えることや、
当時すでに、このユニホームの使い道がなかったであろうこと、
さらに茂木勝矢氏が監督で率いていたことを考察すると、
当時のユニホームを加工したのではないかと推測されるが、
その経緯・真相は定かではない。
ちなみに、結果は山形相互銀行(現きらやか銀行)に0-10で大敗している。 完。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
長きにわたっての連載にお付き合い頂き、ありがとうございました。
お楽しみいただけましたでしょうか。
あなたは、どのユニホームに袖を通しましたか。
掲載にあたり、貴重な資料写真を快く提供して頂いた佐藤喜彦氏(昭和49卒)と
遠藤一徳氏(昭和54卒)の御両名には、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
また当時の卒業アルバムや、学校創立当時の時代背景など、
貴重なお話を聞かせていただいた長南克志氏(学校職員)にも重ねて御礼申し上げます。
※左上にあるカテゴリー欄の【ユニホーム】をクリックしていただくと、
古い年代から順に時系列で見ることができます。
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1974(昭和49年)鶴岡商業~1978(昭和53年)鶴商学園モデル。
このユニホームも残念ながら現存しておらず、現在は写真しか残っていない。
前年の1973(昭和48年)の山形県大会において、
青木投手(阪神ー大洋)を率いて準優勝した際に、
斎藤哲二前校長が大変喜んで、「好きなユニホームを作りなさい。」と
ポケットマネーを出したといわれている。
当時は、まだニット製がなく伸び縮みしない綿が主流だったという。
アイボリーに緑色のタテジマは当時から非常に目立っており、鮮やかな緑色の帽子が特徴的だった。
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と黒に金縁刺繍されている。
1977(昭和52年)に鶴岡商業高校から鶴商学園高校に校名が変更になるが、
ユニホームは「Tsurusho」読みで問題がなかったため、そのまま移行している。
ラグラン袖の左袖には校章が直刺繍されていた。
当時はユニホームの裾をややダブつかせて着て、
正面からの見てもベルトが見えないくらいが強豪校の着こなし術だったという。
タテジマのユニホームの襟・袖。パンツサイド・ベルトループには
太いラインが施され、当時の高校野球のユニホームとしては、
かなり目立っていたことは、容易に想像できる。
また、当時はまだ全員がグランドコートまで揃えている学校も少なく、
「野球は我が校の、校技である。」と言い切った校長の力の入れようが伝わってくる。
1978(昭和53年)の甲子園初出場を契機に、ユニホームの素材がニット主流の時代になり、
その後いつ頃まで使用されていたのか、などの詳細は不明である。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
このユニホームも残念ながら現存しておらず、現在は写真しか残っていない。
前年の1973(昭和48年)の山形県大会において、
青木投手(阪神ー大洋)を率いて準優勝した際に、
斎藤哲二前校長が大変喜んで、「好きなユニホームを作りなさい。」と
ポケットマネーを出したといわれている。
当時は、まだニット製がなく伸び縮みしない綿が主流だったという。
アイボリーに緑色のタテジマは当時から非常に目立っており、鮮やかな緑色の帽子が特徴的だった。
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と黒に金縁刺繍されている。
1977(昭和52年)に鶴岡商業高校から鶴商学園高校に校名が変更になるが、
ユニホームは「Tsurusho」読みで問題がなかったため、そのまま移行している。
ラグラン袖の左袖には校章が直刺繍されていた。
当時はユニホームの裾をややダブつかせて着て、
正面からの見てもベルトが見えないくらいが強豪校の着こなし術だったという。
タテジマのユニホームの襟・袖。パンツサイド・ベルトループには
太いラインが施され、当時の高校野球のユニホームとしては、
かなり目立っていたことは、容易に想像できる。
また、当時はまだ全員がグランドコートまで揃えている学校も少なく、
「野球は我が校の、校技である。」と言い切った校長の力の入れようが伝わってくる。
1978(昭和53年)の甲子園初出場を契機に、ユニホームの素材がニット主流の時代になり、
その後いつ頃まで使用されていたのか、などの詳細は不明である。
写真提供:佐藤喜彦 氏(昭和49年卒)
1978(昭和53年)の第60回全国高等学校野球選手権大会、初出場の際に新調したモデル。
この大会までは5年に1度の記念大会を除いては、秋田県代表との西奥羽大会を制しないと
甲子園へは出場できなかったのだが、この年から1県1代表制となった記念すべき大会である。
メーカーはミズノ社製で生地素材はニットで収縮性も高い。
当時はまだ綿の生地が全盛の時代だったが、いち早くニットを採用し、
さらにライトグレー地に緑ラインというカラーリングデザインは、
高校野球ユニホームとしてはあまりにもカスタマイズされたものであり、
さながらプロモデル並みのハイオーダーなユニホームで、
ミズノ社渾身の作品ともいえよう。
袖の形状はミズノ社特有のラグラン袖で校章が直刺繍されている。
首・袖・パンツサイド・ベルトループにも深緑のラインが施され、
左袖にのみ校章が金色で直刺繍されているのが分かる。
ライトグレー地に緑ラインの配色は、実はこのユニホームが最初であり
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と刺繍されており、その文字色は深緑である。
当時、タテジマのユニホームにさらにライン加工を施すというのは非常に珍しく、
また、全国的に見ても緑色の帽子・ヘルメットというのも非常に珍しい時代であった。
初出場の鶴商学園と2回目の出場の日田林工の一戦は0-3で惜敗したものの
無失策試合であり、当時から、守備はよく鍛え上げられていた印象が強い。
2年生エースだった君島投手は、甲子園入り直前に肩を壊してしまい、
試合中は終始、痛み止めを打ちながらの投球であったという。
ボール球を使った組み立てができず、また得意のシュートも投げれずに
真ん中直球勝負で挑み、わずか【68球】で甲子園を去った。
この【68球】という数字は、夏の甲子園9イニング完投投手の最少投球数記録であった。(参考記録)
この翌年の春にセンバツ出場が急遽決まり、再度ユニホームを新調することになるため、
比較的に着用期間は短かったモデルであったと思われるが詳細は不明である。
写真提供:遠藤一徳 氏(昭和54年卒)
この大会までは5年に1度の記念大会を除いては、秋田県代表との西奥羽大会を制しないと
甲子園へは出場できなかったのだが、この年から1県1代表制となった記念すべき大会である。
メーカーはミズノ社製で生地素材はニットで収縮性も高い。
当時はまだ綿の生地が全盛の時代だったが、いち早くニットを採用し、
さらにライトグレー地に緑ラインというカラーリングデザインは、
高校野球ユニホームとしてはあまりにもカスタマイズされたものであり、
さながらプロモデル並みのハイオーダーなユニホームで、
ミズノ社渾身の作品ともいえよう。
袖の形状はミズノ社特有のラグラン袖で校章が直刺繍されている。
首・袖・パンツサイド・ベルトループにも深緑のラインが施され、
左袖にのみ校章が金色で直刺繍されているのが分かる。
ライトグレー地に緑ラインの配色は、実はこのユニホームが最初であり
胸のマークは筆記体で「Tsurusho」と刺繍されており、その文字色は深緑である。
当時、タテジマのユニホームにさらにライン加工を施すというのは非常に珍しく、
また、全国的に見ても緑色の帽子・ヘルメットというのも非常に珍しい時代であった。
初出場の鶴商学園と2回目の出場の日田林工の一戦は0-3で惜敗したものの
無失策試合であり、当時から、守備はよく鍛え上げられていた印象が強い。
2年生エースだった君島投手は、甲子園入り直前に肩を壊してしまい、
試合中は終始、痛み止めを打ちながらの投球であったという。
ボール球を使った組み立てができず、また得意のシュートも投げれずに
真ん中直球勝負で挑み、わずか【68球】で甲子園を去った。
この【68球】という数字は、夏の甲子園9イニング完投投手の最少投球数記録であった。(参考記録)
この翌年の春にセンバツ出場が急遽決まり、再度ユニホームを新調することになるため、
比較的に着用期間は短かったモデルであったと思われるが詳細は不明である。
写真提供:遠藤一徳 氏(昭和54年卒)
1979(昭和54年)~1982(昭和57年)モデル
ローリングス社製、ニットタイプ。
昭和54年の第51回春の選抜大会出場時に新調され、
1回戦では天理(奈良)を撃破し、2回戦では池田(徳島)に惜敗したが、
全国に「鶴商学園」の名を知らしめた代表的なユニホームである。
当時、高校野球の基本色は白・黒・紺が主流の時代のなかで、
帽子・アンダーシャツ・ストッキング・ヘルメットが深緑色(モスグリーン)というのは
非常に珍しく、第51回センバツ出場校の中でも一際目立つカラーリングであった。
ちなみに前年の夏の選手権に初出場した際に着用していたユニホームには、
襟元・袖口・パンツサイド・ベルト通しに黒いラインが施されていたが、
選抜出場が不確定だったことや(東北大会ベスト4)、
生地素材が綿からニットに切り替わる時流の中で、ライン加工が間に合わなかった。
http://kyakyufan.web.infoseek.co.jp/senkoukeika/79.htm
胸のマークは緑地に金縁で「Tsurusho」と筆記体で施されている。
左袖には校章が刺繍されているが、右袖には校名は入っていない。
完全フルオーダーの証、ウエストには赤タグ、襟には白タグというダブルタグが特徴的である。
1981(昭和56年)第63回夏選手権大会出場時にも使用しており、
開会式では三浦淳一主将が選手宣誓を行なった際にもこのモデルを着用し、
その知名度を全国区で不動のものにしたといえよう。
第63回選手権大会では近江(滋賀)と対戦し3-4で惜敗している。
当時の近江が鮮やかなスカイブルーに対し、鶴商はモスグリーンが基本色であり、
実況アナウンサーが試合中に「両チームとも非常に派手なユニホームです。」と伝えたことから、
後に高野連から指導を受け基本色を黒に変更されたと噂されたが、
真相はユニホームの規定変更に伴うためである。
それまでは、高校野球でも赤ヘルやツートンカラーのヘルメットが採用されていたり、
プロテクター・レガースも多彩色のものが使用されていたが、1983(昭和58年)に
白・黒・紺に規定統一されたため。
このモデルは1983以降も、春季・秋季大会用のニットとして
その後数年間は公式戦でも着用されていたが、
後に、同じくローリングス製のニットを新調したことにより廃止された。
ローリングス社製、ニットタイプ。
昭和54年の第51回春の選抜大会出場時に新調され、
1回戦では天理(奈良)を撃破し、2回戦では池田(徳島)に惜敗したが、
全国に「鶴商学園」の名を知らしめた代表的なユニホームである。
当時、高校野球の基本色は白・黒・紺が主流の時代のなかで、
帽子・アンダーシャツ・ストッキング・ヘルメットが深緑色(モスグリーン)というのは
非常に珍しく、第51回センバツ出場校の中でも一際目立つカラーリングであった。
ちなみに前年の夏の選手権に初出場した際に着用していたユニホームには、
襟元・袖口・パンツサイド・ベルト通しに黒いラインが施されていたが、
選抜出場が不確定だったことや(東北大会ベスト4)、
生地素材が綿からニットに切り替わる時流の中で、ライン加工が間に合わなかった。
http://kyakyufan.web.infoseek.co.jp/senkoukeika/79.htm
胸のマークは緑地に金縁で「Tsurusho」と筆記体で施されている。
左袖には校章が刺繍されているが、右袖には校名は入っていない。
完全フルオーダーの証、ウエストには赤タグ、襟には白タグというダブルタグが特徴的である。
1981(昭和56年)第63回夏選手権大会出場時にも使用しており、
開会式では三浦淳一主将が選手宣誓を行なった際にもこのモデルを着用し、
その知名度を全国区で不動のものにしたといえよう。
第63回選手権大会では近江(滋賀)と対戦し3-4で惜敗している。
当時の近江が鮮やかなスカイブルーに対し、鶴商はモスグリーンが基本色であり、
実況アナウンサーが試合中に「両チームとも非常に派手なユニホームです。」と伝えたことから、
後に高野連から指導を受け基本色を黒に変更されたと噂されたが、
真相はユニホームの規定変更に伴うためである。
それまでは、高校野球でも赤ヘルやツートンカラーのヘルメットが採用されていたり、
プロテクター・レガースも多彩色のものが使用されていたが、1983(昭和58年)に
白・黒・紺に規定統一されたため。
このモデルは1983以降も、春季・秋季大会用のニットとして
その後数年間は公式戦でも着用されていたが、
後に、同じくローリングス製のニットを新調したことにより廃止された。
1983(昭和58年)~1988(昭和63年)夏の大会用のメッシュタイプ。
ミズノ社製、スポーツメッシュ生地採用。
それまで帽子・アンダーシャツ・ストッキング・ヘルメットに緑色を用いていたが、
高野連のユニホーム規定が変更になり、ヘルメットには白・黒・紺のみしか
使用できなくなった。
それに伴い、1983(昭和58年)ユニホームの基本色も緑から黒に変更された。
それまでのローリングス社製ではなくミズノ社で作製されたメッシュタイプが特徴的で、
当時、強豪校のほとんどがまだニット製を着用している中で、
スポーツメッシュ生地のユニホーム導入は県内でもっとも早かったといわれている。
胸の「Tsurusho」のマークは、帽子・アンダーシャツに合わせて黒地に金縁刺繍が施されており、
また従来のモデルよりも跳ね上がり度が強く、躍動感も強調されている。
ミズノ社の特徴でもあるラグラン袖には、このモデルから【鶴商学園】と隷書体で刺繍された。
ちなみに緑色から黒色にチームカラーが変更になった最初の2年間のみは、
ユニホームの胸マークが黒地に金刺繍なのに対し、帽子とヘルメットのマークは
黒地に銀色のTSマークであった。
これは、直前までの緑地に銀色の帽子・ヘルメットを使用していたものを、
ベース色のみ変更したために起きたミスオーダーだったと、のちに監督が告白している。
1985(昭和60年)より、帽子・ヘルメットのマークも黒地に金色で統一された。
このメッシュモデルは夏の大会のみの着用に限られており、春季・秋季大会では着用されておらず、
大会シーズン別でユニホームを使い分けるきっかけとなったモデルでもある。
ミズノ社製、スポーツメッシュ生地採用。
それまで帽子・アンダーシャツ・ストッキング・ヘルメットに緑色を用いていたが、
高野連のユニホーム規定が変更になり、ヘルメットには白・黒・紺のみしか
使用できなくなった。
それに伴い、1983(昭和58年)ユニホームの基本色も緑から黒に変更された。
それまでのローリングス社製ではなくミズノ社で作製されたメッシュタイプが特徴的で、
当時、強豪校のほとんどがまだニット製を着用している中で、
スポーツメッシュ生地のユニホーム導入は県内でもっとも早かったといわれている。
胸の「Tsurusho」のマークは、帽子・アンダーシャツに合わせて黒地に金縁刺繍が施されており、
また従来のモデルよりも跳ね上がり度が強く、躍動感も強調されている。
ミズノ社の特徴でもあるラグラン袖には、このモデルから【鶴商学園】と隷書体で刺繍された。
ちなみに緑色から黒色にチームカラーが変更になった最初の2年間のみは、
ユニホームの胸マークが黒地に金刺繍なのに対し、帽子とヘルメットのマークは
黒地に銀色のTSマークであった。
これは、直前までの緑地に銀色の帽子・ヘルメットを使用していたものを、
ベース色のみ変更したために起きたミスオーダーだったと、のちに監督が告白している。
1985(昭和60年)より、帽子・ヘルメットのマークも黒地に金色で統一された。
このメッシュモデルは夏の大会のみの着用に限られており、春季・秋季大会では着用されておらず、
大会シーズン別でユニホームを使い分けるきっかけとなったモデルでもある。
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